=『双蝶々曲輪日記』=
=36:『月の光のまほう』の巻=
『双蝶々曲輪日記』 ふたつちょうちょう くるわのにっき っていうお芝居の八段目。
このタイトルは、このお芝居の二段目、俗に
『相撲場』 とよばれる場面をイメージしてつけられたもので、
今回描いた、この『引窓』 には蝶々も遊廓も出てきません。
前の『相撲場』とそれにつづく場面が、
当時の花形職業(今のプロ野球選手ってより、大リーガー級?)だった
相撲取り や、乱暴モノのおさむらい 、若旦那 、当時大人気のおいらん 、と、
華やかな登場人物に彩られた動きのある展開なのに対して、
この『引窓』は、地味。
前の場面で、事情があるとはいえ人を殺してしまった
相撲取りの濡髪長五郎 ぬれがみ ちょうごろう 、
なんか色っぽい名前ですよね。
それが逃げるから(九州あたりに逃げてしまえばとりあえず大丈夫なのです)暇ごいのために故郷の母親の家に来て、
山の中の小さなおうちに「嬉しや、ここじゃ」 て言ってたどり着いたものの
母親は再婚していて、その二番目のだんなも亡くなっているのですが、息子さん、つまり 濡髪の腹違いの弟にあたる十次兵衛 じゅうじべえ (侍になったから改名した、俗名、与兵衛)は
死んだ父親が武士だったから同心でなのです。
しかもこれが初仕事、指名手配の濡髪長五郎を探して捕まえなくちゃ なりません。
母親、濡髪長五郎、十次兵衛、それぞれが
自分の立場と相手の立場、義理と家族の愛情とのいたばさみになって苦しむ、
むずかしいお芝居。
「引窓」 というのは、屋根に取り付けられたあかり取りの小さい窓。
窓にガラスを使う前の時代の日本家屋は、
雨を避けるために屋根が窓の上を深く覆っており、部屋の中はけっこう暗かったらしいです。
天井にあかり取り窓が付いてるのは、たとえばお江戸の裏長屋なんかも、実はそうです。
このお芝居では、舞台は月夜 、旧暦八月十五夜のお月見の夜です。
夜、ほかに光源のなかった昔は月の光 ってものすごくありがたいものでした。
月の出る時間を気にしたり、ながめたり、歌に詠んだり、
すべて、ただ風流だけでやってたんじゃないんですね。
生活に、というか人生に必要なモノだったからこそ、大事にもされ、愛されもしたのです。
で、ススキやおだんごも飾ってお月見の準備もすっかりすんだその夜が舞台です。
ご覧のとおりの並足と高足の二種類の二重(にじゅう、家のセット用の台ね)を組み合わせた
変則的な舞台装置と、
「引窓」を開け閉めするたびに明るくなったり暗くなったりする設定とが、
ていうか実際は照明の明るさ変わりません。浄瑠璃(語り、ナレーションにあたりますね)の文句だけ。そこがいいの。
逃げてかくれている兄と弟との出会い、花形力士からおたずねものへの零落 、
武士として父の跡を継がなければならない弟の心、板ばさみになって苦しむ母、見守る嫁、
いろいろな現実を照らし出したり隠したり、離したりくっつけたり 。
同じコトを昼間、または人工照明の下で、平べったい舞台装置でやったら、
もっとナマナマしく、感じの悪いおハナシになるにちがいありませんが、
一軒の家のようでそうでない段違いの構造が
人間関係に直接ぶつからないギリギリの距離をつくり、、そして、
なにより、
月の光が 、すべてを別世界のできごとのように浄化してくれるのです。
秋の月の光の下だと、人間静かなこころになりますよね。
そして、夜明けとともにひとびとの心の整理はつき、濡髪は逃げていくのですが、
どう転んでも誰かが傷つくこの設定、
最後に<放生会> (ほうじょうえ 生き物を助けて自分の功徳を積む仏教のイベント、
旧暦お月見の15日にやるのだ)という
仏教のこころ を出して、すべてを救ってくれるところが、
とてもよくできてるなあといつも思います。
台詞劇なので、設定も、舞台装置も、生かすも殺すも役者さんしだい 。
殺しちゃったら<放生会>にならねえけどねってば。
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