=『御所桜堀川夜討』四段目=
=55:『京の桜と江戸の桜と』 の巻=
■もどる■   ■すすむ■


 
歌舞伎の歴史を語る上で、人形芝居=文楽 との関係は無視できないものがございます。
初期の歌舞伎は単純に 「役者を見せる」 ものでした。
ビジュアルはもちろん、セリフの言い方や動きなんかを見せて、 単に場面場面での役者さんのかっこよさを楽しませるものであったのにたいして
同時期の文楽は、かの近松門左衛門 、続く近松半二 なんかを擁して
チミツで説得力のあるリアルなストーリー展開を誇り、しかも、 人形劇ですからなんでもアリ
首はとぶわ、胴はまっぷたつだわ、 大岩は投げるわ、妖術で海の水はモーゼのように割れるわ、 やりたいほうだい。
「おもしろいおはなし」は歌舞伎でなく文楽に存在しました。
当然、実力も人気も身につけた歌舞伎の役者さんたちは 文楽の台本に目をつけます。
というわけで、歌舞伎、完全にオリジナルの台本というのは案外少なく、
文楽からの移入作品が相当数にのぼります。
これを「丸本もの」 というのです。 「丸々文楽(ときには能)の本を使ってる」
というイミらしいです。
さて、丸本もの、申し上げたとおり、 人形遣ってやりたいほうだい派手な演出してますので、 このまま歌舞伎でやることは不可能な場合が多かったのです。
んで、いろいろ工夫しました、歌舞伎。人形そっくりにやるのではなく、
派手に動けないぶん人間ならではの細かい感情表現は有効に使いつつ、
普通は人間にはできないような動きや、人間ばなれした強さなんかを表現するのに独特の動きや衣装、道具をどんどん考案しました。
歌舞伎の独特な、世界に類を見ない演技、演出様式は
文楽の影響なしには語れません 。
人形の動きは、大きく、わかりやすく、情報としての純度が高いです。
それを人間でやるから、「ちょっとフツウの人間じゃない」かんじが
歌舞伎を見ているとすごくするのです。
これはもう、歌舞伎全体の雰囲気になってしまっていて、
文楽の影響を直接うけてはいないはずの「生世話物」(きざわもの)と呼ばれる、 よりリアルな生活感のある作品なんかでも、やっぱり、
そういう「表現の純度の高さ」あるいは「ナマナマしくなさ」みたいのは
常に感じるところです。
さて、描いたのは『籐弥太物語』 とうやたものがたり と呼ばれるお芝居
『御所桜堀川夜討』 こしょざくら ほりかわようち 四段目です。
典型的な丸本ものです。
三段目は『弁慶上使』 、以前描きました。三段目のほうが有名です。弁慶出るしな。
『御所桜』 全体の主役は九郎判官義経様ですが、
「義経」といえば、セットで出てくるのが側室の「静御前」
四段目の主役の、この籐弥太 (とうやた)という男は その静の兄です。
悪さがすぎて親に勘当され、行状なおらず義経様のヒミツを 頼朝方にチクろうとして、
ついに、母親に斬り殺されます。
という、まあ、チンピラふうの小悪党。
んでも死ぬ前に改心して頼朝の夜討の作戦を教えるから、 根はいいやつってことで、
こそこそ悪さをしているわりには、かっこいい、華やかな役に描かれています
ね? オイシイ役どころでしょ? 役者さん、やってみたがりそうでしょ?
ところで歌舞伎、文楽をただアレンジして出すだけでなく、
「入れ事」 というオプションも考えつきました。
文楽はストーリー性重視ですから、歌舞伎にするとそのままじゃ役者さんの見せ場が足りない、ということがあるわけ、そんなとき
歌舞伎の方で勝手になんかかっこいい場面を入れるのです。
この「籐弥太」でいうと、母に斬られて死ぬ間際に改心した籐弥太
夜討を教えるだけでなく、手追いのままで獅子奮迅の大立ち回り、 攻めてきた軍勢を追い返します。
強いぞ、かっこいいぞ。役者さん大はりきりだぞ
んで、その「入れ事」の出来がいいと 今度は文楽がそれを真似することもありました。
こうして歌舞伎と文楽、相互移入を繰り返しながら お互いのよさをとりいれあって、発展、成長してきたのです。
作品へのアプローチも、演出のカンどころも、あまりに異質な この二つのエンターテインメント、
だからこそ、お互いの特質を生かしつつ、
それぞれダイナミックに発展してこられたんでしょうね。




-55-